1*サカナの空 | |
さかなという変わった苗字を持っている高校生がいる。 漢字は坂南と当てる。 戸籍にもきっちり、「サカナ」と表記されているのだ。 幼年時代はこの一風変わった苗字が理由で苛められたこともあった。 高校にもなるとそういうことはなくなったが、やはりサカナミと呼ぶ人が圧倒的に多く、担任の教師でさえも彼をサカナミくんと呼んだ。 坂南くんはもう訂正を求めることさえあきらめている。 どう考えたってサカナなんて苗字よりもミをつけてサカナミと読む方が自然だ。 それで何事もなく波風がたたないというならそれに越したことはない。 そんな坂南(さかな)くんは大嫌いな友人を1人、持っていた。 「大嫌い」という項目は、「その対象は友人ではない」ということにはならない。 「好き」でも、「好きじゃなく」ても、「嫌いじゃなく」ても、「嫌い」でも、たとえ「大っ嫌い」だとしても友人は友人なのだ。 友人は「早氏(はやし)」くんという、やはり変わった漢字の苗字を持った男子だった。 早氏くんは高校のクラスメートで、坂南くんの右斜め二つ前の席に座っていた。 早氏くんは内向的な性格で非常に大人しい雰囲気だが、陰気である。 鬱々として顔色も悪く、細身の長身でひょろりと背は高いが、痩せているためその身長ほどの大きな印象がない。 坂南くんが嫌いなのは彼の目だった。 糸のように細く、古い日本画にでも描かれていそうに毒を含んでいるように気味が悪かった。 同じクラスの女子たちが、「なんであんなに目が細いんだろうねぇ?」と悪意を込めて話しているのを聞いたことがある。 クラスの人間どころか、学校中の誰とも口をきかず、話さず、なにかのグループ実習の時にもひとりぽつんと座っている。 早氏くんはただただ、たいした理由もなく周囲の人間からの評判を確実に落としていた。 坂南くんもそのひとりであった。 しかし、早氏くんに対して、坂南くんにある種の友情のようなものを抱かせることがあったのだ。 昼休み、坂南くんは前の授業で使用した地図を返すために入った図書室で、奥の席に座っている早氏くんを見つけた。 地図を置く資料室は図書室に続く奥の部屋にあるのだ。 早氏くんは一冊の分厚い画集を熱心に見ていた。 坂南君は資料室に行く為に早氏くんの背後を通り過ぎた。 すると、早氏くんが何を見ていたのかがわかった。 早氏くんはフラ・アンジェリコ作の「受胎告知」を見ていたのだ。 「受胎告知」はフラ・アンジェリコの最高傑作である。 天使がブルネレスキ的回廊で、マリアに受胎を告げているシーン。 ブルネレスキというのはルネッサンスの先駆けをなす建築家であり、ローマのパルテオンなどの建築を研究し、フィレンツェのドゥオモやパッツィ家の礼拝堂などを建設したことで有名な人物である。 天使の翼や2人の光背を除くと、まるで親しい女性同士のおしゃべりの場面のようにも見える。 完全に制御された感情。 その切り取られた静寂は完璧だ。 坂南くんは、美術の授業で見て以来、好きな絵だったので、思わず声をかけた。 「それ、フラ・アンジェリコの『受胎告知』だ。」 坂南くんは、返答が返ってくるなど思いもしていない。 誰が話しかけても事務的なこと意外は返事が返ってこないことはクラス中の者が知っていることだった。 だから、そのまま通り過ぎて資料室に入り、円筒形にくるまれた地図を所定の壁に掛け、戻ってくると、早氏くんの能面を思わせる白い顔と細い目がこちらを見ていた時は少なからずドキリとし、背中に寒いものが走った。 あらためて自分はこの人間が嫌いなのだと認識した。 「フラというのはアンジェリコの名前じゃないんだ。修道士の呼称なんだ。本当の名前はベアト・アンジェリコというんだ。この『受胎告知』は、イタリアフィレンツェのサンマルコ寺院の僧房に描かれているものの一枚さ。ベアト・アンジェリコがこの絵を僧房に描いていた時代には、ローマ教皇に敵対し、メディチ家を追放し、宗教改革に取り組んだサヴォナローラという人もこのサンマルコ寺院にいたんだ。その後ローマ教皇に破門されてシニョーリア広場で火あぶりになって死んだ。そういう激動の時代にひっそりとこんな静かな絵が描かれたのさ。」 「へぇ、火あぶりになるってどんな気持ちなんだろうね。」 初めて見る饒舌な早氏くんに、坂南くんも気押され気味に返す。 坂南くんも絵は嫌いじゃなかったからだ。 フラ・アンジェリコの絵は以前から知っていたけれども、早氏くんが話すその絵を取り巻く歴史の話は坂南くんは知らなかったことだった。 授業では聞いたことのない早氏くんの博識は、少なくとも坂南くんを喜ばせた。 しかし、早氏くんへの坂南くんの稚拙な応答は、どうやら早氏くんのお気に召さなかった。 「君はそんなことを気にするのかい?坂南くん。何百年も前に死んだ人の気持ちなんてどうでもいいよ。君はもしかして素晴らしい絵を見て、感動して、どんな気持ちで作者はこの絵を描いたんだろうっなんて、そんなことを思う自分自身に酔いしれる人種かい。人はただ、与えられた感動を無心に受け取っていればいいんだ。当時の人の心を知ろうとするなんてのはあまりにも厭らしいね。」 冷然と言い放った早氏くんは画集を閉じ、それを元の場所に戻した。 そして突然怒りだした早氏くんに硬直しかない坂南くんを置いて、さっさと図書館を出て行ってしまった。 坂南君は、学生服の上からでも痩せたとわかる早氏くんの貧相な背中を呆然と見送った。 自分の言ったことに対して、まるで子供の癇癪のように突然怒り出した早氏くんには確かに腹がたったし、不愉快だったが、むしろ坂南くんが驚いたのは自分の名前を早氏くんが知っていたということだった。(早氏くんは坂南くんをきちんとサカナくんと呼んだ。) その時から、坂南くんにとって早氏くんは大嫌いではあるが友人になった。 たまに話しかけると、早氏くんもあえて無視するということはしない。 こちらを見ることさえしないが、一言二言話すようになっていた。 授業の方も、早氏くんは学校の図書室にいることはあっても、授業に出たり出なかったりしていたが、教師たちは既に早氏くんを完全に無視していた。 英語の授業のことである。その日の午後、早氏くんはめずらしく授業に参加していた。 秋空が青く広がり、日の光が暖かいけれども冷たく教室を照らしていた。 教室は日当たりの良い位置にあるわりには冷えた。 「おいおい、みんな!これくらいの問題解けないと大学には受からんぞ!」 英語教師の覇気の薄い声が教室に響いた。 その日英語教師から出された難しい長文問題は、誰も正答する者がいなかった。 次々と端の席から順に沿って生徒がその問題を当てがわれ、誰も彼もがわかりませんと、小さく答えてさざなみのように座っていく。 面倒くさそうに英語教師は後頭をぽりぽりと掻いて、唐突に一列飛んで早氏くんに声をかけた。 「おい、早氏やってみろ。」 英語教師の問いに、早氏くんは無言でガタンと立ち上がり、俯き加減に、なにやら早口でベラベラと難解な英語をしゃべった。 その答えの正誤は、ただ早口だからというだけじゃなく、難しくてクラスの誰にもわからなかったに違いない。 もちろん坂南くんにもさっぱりだった。 「・・・・・・。」 早氏くんはひとしきりしゃべり終えるとストンと席に座った。 「・・・正解。」 おそらくは苛めるつもりだったのだろうが上手くいかず、つまらなそうに低く正解を告げると、その英語教師は眉根を広げて、その長文問題の解説に残りの時間を費やした。 その出来事はクラスメートの誰もを驚かせたに違いない。 しかし、授業に出たり出なかったりしている、いわゆる「神出鬼没の早氏くん」の実力は、クラスメートの信頼を得るには至らなかった。 本人にその気がまったくなかったからである。 坂南くんもだからといってその時は声をかけることはしなかった。 そんなことがあった日の放課後、坂南くんが塾からの帰りに早氏くんを見かけたのは偶然だった。 早氏くんは学生服を着ていず、私服で、黒いリュックを片方の肩に掛けてふらふらと歩いていた。 とっさに時計を確認する。 塾が終わったばかりなので既に21時は過ぎていた。 夕食は塾前に弁当でとっくに済ましていたし、いつものように帰宅すれば22時過ぎには自宅に着き、風呂に入って寝るだけだ。 しかも両親は共働きで二人とも深夜を過ぎないと帰ってこない。 (もしかしたら、どこか特別にいい塾にでも通っているのかもしれない。) 午後の授業を思い出して、坂南くんは早氏くんをつけることを決めた。 早氏くんはどんどん人込みに埋もれていく。 あわてて後を追った。 つけていくうちに坂南くんは嫌な予感がしてきた。 このまま行くと<塵捨て場>と呼ばれる路地裏通りに入ってしまうのだ。 仄暗く足元を照らすナトリウム灯が多くなるに反比例して、頭上を照らす清潔な水銀灯が減っていく。しだいに人通りが少なくなり、行き交う人々の服装もより草臥れたものになっていく。 私服の早氏くんはまだいい。 灰色のタートルネックに茶古いジーンズという格好は<塵捨て場>に入っても周囲に溶け込み、気に留めるものは誰もいない。 しかし、その中で坂南くんのこぎれいな詰襟の学生服に学生カバンといういでたちはひどく目立った。暗い目つきをしたジプシー(乞食)が舐めるように坂南くんのカバンに視線をやるのを感じた坂南くんは、カバンを抱きかかえるようにして必死に早氏くんを見落とすまいとした。 既に<塵捨て場>に入ってしまっていた。 ここは表通りと比べると治安が格段に悪く、素行の悪い連中が多くたむろしている一郭である。 非合法な品物を置く店もかなり多い。 昔、好奇心から実際に入ったことがあったが、まず店主の目が怖い。 店先の客の自分を舐めるような視線が怖い。 窒息してしまいそうなその裏通りを、坂南くんはやっとのことで引き返したのだった。 (随分後になって、薬屋が異様に多かったことに気づいた。) <塵捨て場>の荒廃した独特な腐臭は、坂南くんの精神を著しく陰鬱にさせた。 今、昔嗅いだ臭いと同じ腐臭が坂南くんを苦しめている。 舗装されていないむき出しの土は錆びた鉄と硫黄のような臭いがしたし、汚物が塗りたくられている壁もあった。 (早氏くんは、なぜこんなところに、どんな用があるのだろう?) 疑問が次々と沸いたが、今はそれを確かめる気持ちが萎えてきた。 ひどい腐臭だ。 人々が怖い。 水銀灯どころか、ナトリウム灯すら点灯があやしい場所もある。 行けば行くほど道々が暗く、汚くなり、これ以上行ってもいいものかどうか、坂南くんは悩みはじめた。 (なんでつけてきてしまったんだろう?あいつがどこの塾に行ってるかどうかなんてどうでもいいことじゃないか?考えてみれば<塵捨て場>に入った時点で塾云々という行き先の項目はなかった・・・。) その時、早氏くんが、ふいと右に曲がった。 あわてて坂南くんも後を追う。 今はここで唯一知っている人間を見失ってしまうことが怖かった。 右に曲がって、いや、曲がろうとして、坂南くんは曲がることが出来なかった。 早氏くんが奥深く踏み込んで行った先は、さらに闇が深く、ぽっかりと空いたブラックホールのようだった。 坂南くんは結局怖くなってつけるのを断念した。 (ついていかなければよかった。) 坂南くんはその後の道程を死ぬほどの恐怖に耐え、走って帰った。 やっとのことで表通りに脱出した時は、新鮮で清潔な空気が美味しかった。 深く深く息を吐き、また吸う。 もう一度吸って、また吐いた。 既に吐く息が白く凝るほど寒くなっていた。 ようやく落ち着いた坂南くんがきびすを返して<塵捨て場>へと続く道を振り返る。 奥の角からはまだ、ジプシーたちが低く喋っているボソボソと震えたような声が聞こえていた。 時間を見るとすでに深夜1時を回ってしまっている。 (帰ろう。そして今夜のことは出来るだけ忘れるようにしよう。) 明らかに切り離された世界は腐臭と闇に満ち満ちていて、坂南くんをわけもわからず絶望させた。 見上げた空は、いつもよりもかなり月の落ちた薄蒼い空だった。 |
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