2*真実の膿み | |
自分の目に自分を偽っているから 自分の悪を認めることも それを憎むこともできない。 その老婆は<塵捨て場>と呼ばれる貧民窟で生まれた。 そこは汚い路地裏であり、ゴミ溜めであり、戸籍を与えられないジプシーたちが暮らす隔絶された、云わば膿んだ土地だった。 区画整理をされずに元からあったと思われる打ち捨てられた石の家に無秩序に建て増しされた建物や壁、その壁に通り抜ける為だけに空けられた穴。 それらのすべてが連なって巨大な迷路と化していた。 ある場所では、工事が30年終わらないまま放置された不衛生な下水道からは相当な異臭が漂っている。 またある場所では、崩れた廃工場から薬品が流れ出し、その土や水を汚染していた。 老婆はそんな<塵捨て場>の一角に掘られた穴に棲んでいた。 その穴はいつ誰が掘ったものか、定かではないが、確実に人工的に掘られたものだった。 鉄屑や石や、何か化学物質によって汚染されて腐った土がその穴ぐらを形成して久しい。 老婆は一日のほとんどをその穴ぐらで寝て過ごし、夜になればだるい体を引きずって少しでも表の街に近いキレイな土を掘っては、その中に混じる草の根を食べた。 老婆には真っ当な金を稼ぐすべがなく、空腹を満たすために土を食って凌いでいた。 それから、人通りの多い場所を選んでは、これ見よがしによろよろと徘徊し、他人さまのポケットに手を突っ込んでは生活の“足し”にしていた。 スリが老婆にとっての正当な職業だった。 まだ若かった頃は、その身を売り物にしていた女だったが、歳経るにつれ客が取れなくなり廃業を余儀なくされた。 若かりし頃の無体な生活が祟って身体を壊し、襤褸雑巾のようになった老婆の生活は砂漠の砂のように乾いたものになっていった。 そのうちに、表通りのキレイな土中に埋もれた草根を食べることを自ら学んだ。 草根はひょろりとだらしなく伸びきっており、貧弱ではあるが、わずかながらに老婆の縮みきった胃袋を満たす。 運がよければ、表の人間に恵んでもらえることもある。(めったにないことではあるが) そうして生きて、何年になるかなど、もう、忘れた。 どん底に産まれた老婆だが、死ぬのは怖い。 どん底に生き抜いたからこそ、死ぬのが怖い。 生きるために生きる日々。 それが朽ちかけた老婆のすべてだった。 老婆がその夜、或る少年のリュックサックに目をつけたのは何故だったのだろう? その少年が背のわりに貧相に痩せていて弱そうに見えたからなのか? 当たり前だが、自分より遥かに若いその風貌に夢を見たからなのか? もしかしたら、その少年は実は自分の息子であるという夢を見たかっただけなのかもしれない。(老婆には子供を産んだ経験はないのだが) とにかく、今はその少年の黒いリュックサックが欲しい。 その中身には子供らしい、何か甘い食べ物が入っているのに違いない。 こぎれいな身なりをしているから、財布の中身だって期待できよう・・・。 老婆は自然な演技で少年に向かってよろめいてみせた。 少年の痩せた脇腹に手を置き、弱弱しく微笑んでみせると、支えてくれた少年の手は瑞々しい。 少年の手の温もりに優しさを感じて老婆は内心ほくそ笑んだ。 老婆はこのような時、善良な人間を騙す瞬間の独特な恍惚感に酔いしれる。 世の中の真実など何も知らないであろう幼い者に世の真実を教えてやろう。 それは、卑劣な大人の、厭らしい悪意の何ものでもなかったが、老婆はいっそ優しい心持ちで、するりと少年の左肩から外れかけた黒いリュックサックに手を伸ばした。 その老婆からは酸っぱい臭いがした。 弱った素振りで自分に近づき、無邪気にリュックに手を掛けようとするこの子供のような老婆を、早氏くんは嘲るように見下ろしていた。 この老婆は何も考えずに無駄に大人になり、腐っていったのだろう。 その愚かさには憐れむ気にもならない。 世の中の真実など何も知らないであろうこの老婆に、思い知らせてやる。 キャリキャリと、骨の擦れる音がした。 老婆の視界が突然、不自然に揺れた。 一瞬、地震か?と勘違いするような現象で、老婆は、しばし昏倒した。 痛みは、その後にゆっくりと訪れる。 目の前の静かな眼差しの子供の握られた手が自分のこめかみに触れていた。 体が浮き上がるような感覚だった。 手にかけた黒いリュックサックが空中に飛んだと思ったがそれは違った。 自分が一瞬空中に浮いたのだ。 少年の薄茶色のジーンズに包まれた骨骨しい左足によって。 地面に叩き落ちた感覚は痛みよりも絶望感だった。 (なぜこんなことをされなければならない?) 助けを求めるように周囲に目を馳せたが、周りのものは皆足早に通り過ぎるだけ。 後ろ髪の付け根が火のように熱い。 少年が触っていった後、ぶつりと音がしたから、後頭部の髪はもう、無いかもしれない。 老婆は他人事のように少年の抱擁を受ける。受け続ける。 (なぜ、なぜ?) 老婆の腹が嫌な風にばつんと鳴った。 老婆の右腕が衝撃であるはずのない方向へ何度も何度も、飛び跳ねる。 汚い路地道が天井になり、暗闇の空が足元に広がった。 その暗闇に吸い込まれるような感覚に身が振るえ、じたばたと足をばたつかせる。 断続的に続く痛みと、衝撃に、老婆には最早自分が今どこにいるのか、どのような体位置で振舞っているのかさっぱり、わからなくなった。 「ぐげ。」 とうとう、蛙のような、しかし甲高い悲鳴が細く老婆の喉から漏れた。 それでも早氏くんは止めない。 その狂気じみた行動は、普段の早氏くんを知るものが見ればさぞかし驚愕したことであろう。 少し見ただけでは、早氏くんだとわからなかったかもしれない。 しかし、誰もが想像だにしない、早氏くんの内に確かに眠る兇暴性は、嵐のような激しさで、今は老婆に向けられている。 (蛙め。) おかしい、人間がこんな音を出すとは思えない。 そうだ、こいつは人間なんかじゃない、蛙だ。 でかい蛙だ。でっかい蛙なんだ。 早氏くんは自ら殴った手の痛みによって徐々に感覚が醒めてきた。 老婆は真実、蛙の化け物のようになった。 早氏くんによって1時間以上の時間を掛けて整形された顔は腫れ上がり、ぼこぼこのイボ蛙のようになった。 リュックに手を伸ばした方の右腕の上腕関節は今や三箇所に増え、はりはりと力なく土を掻く。 「コノ、蛙が。」 今度は口に出して言った。 しかし、それは息が上がり、はぁはぁと息を吐くしかない早氏くんの口内で響く、わずかな呟きにしかならなかった。 うっすらと汗を掻き、タートルに包まれた首が汗でじっとりと湿っていて気持ちが悪い。 早氏くんはようやく老婆を解放した。 早氏くんはポケットから薄青の清潔な、(シワ一つもなく)キレイにたたまれたハンカチを取り出して汗を拭く。 そして老婆の惨状を改めて確認した。 鼻背を折られ、腕を折られ、腹を蹴り上げられて、汚物を撒き散らした老婆は、痛みのためか、それとも恐怖のためにか、半ば錯乱状態でわけのわからない言葉とも、泣き声とも、また悲鳴とも思える声を喉から震わせながら這い逃げようとしている。 すりすりと地面を擦る、衣擦れの微かな音がいつまでもその場にいた者たちの耳に障った。 周囲の人間は、見ている者もいればそのまま通り過ぎる人間もいたが、そもそも手出しをする人間などいない、いるはずもない。 周囲の人間全てが、早氏くんの今している行為を日常的に目にしており、最早なんの感慨もない、この通りでは。 弱い方が悪いのか。 盗られる方が悪いのか。 騙される方が悪いのか。 犯されるほうが悪いのか。 殺される方が悪いのか。 (気持ちが悪い、吐きそうだ・・・。) 痛む手をハンカチで何度も拭い、早氏くんはこの場から早々に立ち去りたかった。 老婆の残した、あの酸っぱい臭いが消えない。 早く、自分の家に帰ってシャワーを浴び、血と汗と、この不快な臭いを消したい。 リュックサックを拾い上げ、軽く土埃を叩くとまた同じように左肩に掛ける。 リュックサックの重みが早氏の肩に食い込む。 先刻よりも重みが増したように感じられるのは自分のせいだ。 それでも、熱に浮かされたような奇妙な倦怠感に身震いしながら、空を見上げると、もうかなりの深さで闇が月に沈み、ぽつんと血が滴り落ちたような光を溢していた。 その月明かりと、足元のナトリウム灯の明滅の度に小さい影が浮かび上がる。 早氏くん自身の影法師ではない、もっとずっと小さく細く、儚い影だった。 その薄い影の持ち主を追って早氏くんは目を凝らす。 纏足を思わせる小さな裸足がまず見えた。 水色のズボンは埃だらけで、叩けば土が舞い上がるのではと思わせる。 長すぎるのであろう裾を折りたたみ、下からは剥き出しのくるぶしが見えていた。 シャツは黒く、やはり汚れていてみすぼらしい。 同じように長い袖をまくって着用しているようだった。 …ようだったと表記したのは、その少年の立っている場所があまりに暗く、少年の足元しか、呆明が届いていなかったせいである。 少年が裸足を一歩前に出した。 ひた、と聴こえないはずの音が聴こえたような気がした。 「………。」 少年が、もう二歩前に出た。 (ひた、ひた。) 早氏くんは暗闇に慣れてきた目を眇めて少年を視認する。 あれだけいた、通りを行き交う人々が、いつの間にか全く姿を消している。 病的なまでの静寂が早氏くんと少年の空間を食い破ってゆく。 ナトリウム灯特有の、暗橙色の明滅が早氏くんとその少年の空間を侵食してゆく。 少年の顔が月影とナトリウム灯の微小な照明に照らせれて明確になっていった。 早氏くんは思わず声を上げそうになる衝動を抑えた。 真っ白い埃を被ったような、白髪の奥の、蒼白な顔に表情は無く、本来眼があるはずの位置には二つの空洞がぽっかりと空いている。 蝋人形のような、小さな少年だった。 |
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