3*くろっす
「あ、行かないで…行かないで!!」

立ち去ろうとする早氏くんの、その気配を敏感に感じ取って、少年は必死に叫んだ。

少年の変声前のカン高い声は奇妙にぺたぺたと早氏くんの耳に纏わり付いた。

早氏くんは両の手を宙へおどらせる盲の少年を振り切れない。

目の見えない、いかにも貧弱そうな子供である。

構わず立ち去ることは出来た。

しかし、少年が盲目であると言う事実は、早氏くんをいくらか無防備にした。

たった一人の老婆の存在を許せなかった早氏くんだが、盲の少年には少々の油断を許した。

どこまでも臆病な自分自身に吐き気がさす。

結局臆病な俺は、人と対等に接することなど出来ないのだ。

怖いのだ、他人が。

恐ろしいのだ、他人の目に映る自分が。

しかし、この少年には自分は映らないだろう。

それは間違いない。

この少年には眼球が無いのだから。

「…こんな夜中に子供がこんな所を歩いていたら、危ないんだよ。」

本当に危ないのだ。

この<塵捨て場>で生まれ育った早氏くんにはよくわかっている。

<塵捨て場>の子供たちは、ほとんどがジプシーと呼ばれる乞食の子供たちだ。

何人かのグループで徒党を組んでいることが多く、暗い目をしていて狡賢く、残酷に無邪気だった。

これらの子供たちは大抵は就学することも出来ず、否応もなくスリが生業としていた。

彼等の“仕事”中、影で彼等の父親か母親がじっと見守っている。

そんな<塵捨て場>のジプシーたちでも夜は子供を外に出さない。

夜になると<塵捨て場>の大人たちはより凶暴性が増すという特異な環境と、ジプシーたち特有の宗教的観念のようなものも関係しているようだ。

夜、子供が歩いていると、先生がやってきて子供を攫っていく…という、眠らない子供たちを寝かしつけるジプシー話がある。


その“先生”が何者なのか、何故攫っていくのかわからないが、得たいの知れない端的な話は子供を寝床に留め置くには十分であろう。

「…僕の梟がいなくなったんだ。」

しばらくして、盲の少年はぽつりと溢した。

「見ませんでしたか、これぐらいの大きさで翼を広げるとこのくらいで、飛ぼうとすると最初の一回は転びます。」

片手をを大きく広げてパタパタと飛ぶ真似をする様は年相応の子供に見えた。

盲だというのにペットを探して夜を徘徊していたと言う。

見えないながらも瓦礫のような壁から左手を離さず、必死で壁伝いに歩いてきたのだろうか。

「…ふくろう?」

早氏くんは訝しげに問い直した。

梟に関して、いささか心当たりがないでもない…と、いうよりも確信めいたものがあった。

そうだとしたら、この子にとっては不幸なことだろう。

自分の肩に掛かったリュックサックが不意に重くなった心持ちがする。

「そうです、梟です。」

くり貫かれたかのような空洞を二つ、少年は覗き込ませるようにして歩いてきた。

老婆の固執したリュックサックの中身は梟だった。


もちろん、生きてはいない。

「それなら、こいつだろうか。…悪いけど、死んでるよ。外で見つけた梟の屍骸だ。まだ新しいので剥製にでもしようと思って持ってきてたんだ。」

「…はくせい。」

今度は少年が眉根を顰める番だ。

「それは……。」

少年が言いかけたとき、突然ガシャンとどこかで何かが割れる音がした。

近くではないが、遠くでもない場所のようだ。

なにやら男たちが喚く声が聞こえ、それが段々と近づいてくる。

あまりよくない状況が確かに近づいてくることがわかる。

「………。」

「………。」

早氏くんは、肩から落としかけたリュックサックを背負いなおし、少年の手首を握った。

突然の接触に、びくりと夏野少年の腕が痙攣して一瞬身を引いたが、すぐに不思議そうに首を傾げた。

「とにかく、ここはもう危険だから。別の場所で話そう。俺は君に危害を加えないと言う。君が信じてくれるのなら、行こう。」

「僕は、あなたを信じようと思います。その、梟の話を…、」

早氏くんは少年の言葉を訊き終わらない内にその場を離れる。

少年の手首を握りなおし、暗く陰気な通りを横切り、<喉>通りと呼ばれる小さな小路に入り、さらに右左と曲がっていった。

その間、夏野少年は引きずられるように転びまろびつつ、ついてくる。

錆付いた古い螺旋階段があり、早氏くんは子供の手を引いて慎重に登り始めた。

眼の見えない人間にとって、何十センチかの凹凸がどれほどの恐怖になるのか、早氏くんは知っている。

盲の子供の手を手を取りながら、早氏くんは階段の先の闇を渇目する。

階を上るカン高い金属音は、深い闇夜をつんざく爪痕となって鳴り、響かずに奈落に陥る。

その階段を登り切り、二人はやっと目的地に到着した。

「ここはどこ?」

ゼーゼーと息を巻きながら、少年は早氏くんに尋ねた。

「俺の家だよ。」

そういう二人の目の前にはところどころ腐食した重そうな水色のドアが立ち塞がっていた。

<塵捨て場>の一角、の三階建てのアパート<コーポ・くろっす>。

早氏くんの住処である。

部屋は各階に3部屋ずつあり、住人は101号室に1人、302号室に1人、203号室に1人いて、早氏くんは303号室に部屋を持っていた。

早氏くんはこの<塵捨て場>の一角、二年前に他界した両親の遺した古呆けたアパートを所有しており、自らもそこに住んでいた。

両親が遺したものはアパートだけだったが、おかげで毎月一定金額の収入がある。

その金で<外>の学校へ行き、本を読み、<塵捨て場の子供>としては極めて稀である生活水準と教養を身につけることができているのだ。

終始無言で道筋を辿り、早氏くんは少年を部屋に上げた。(どこにでもある安ホテルのように土足で、早氏くんが靴を脱ぐのはシャワールームとベッドの上ぐらいだ。)

「ここに座って。」

玄関を入るとすぐに長細い部屋が一望でき、小ぶりの暗褐色の木製丸テーブルが中央に据えられている。その丸テーブルにあつらえられた古めかしい椅子に夏野少年の手首を導いて触れさせ、ようやく早氏くんは彼の細い手首を離した。

長いこと手首を掴まれ、引きずられ、痛かったのか少年は手首を遠慮がちに摩りながらその椅子に手探りで座った。

椅子に這い上がると少年の両足が床から10センチメートルほど浮き、小さな足が左右にぶらぶらと揺れた。

早氏くんは、黙って丸テーブルの上にそっとリュックサックを置き、その中からぐったりと、まだ柔らかな屍骸を少年の前に引き摺り出した。

静かに横たわる梟は固く目を瞑り、その目の上の肉と羽は決して開くことは無い。

空を悠々と羽ばたいていたであろう羽はすっかり色褪せ、灰茶色の羽色は死を帯びて冷酷に冷たい。

少年は手探りでその羽を撫でた。

羽は柔らかく、しっとりと湿っていて、そして冷たく、少年の暖かな手の体温を奪っていった。

迂闊な指先がその梟の瞼を通過し、少年はその羽を持ったものが既に死んでいることを理解する。

「老衰だね…。」

「よくわかったね。」

目が見えないのに…とは、さすがに言えなかった。

「お腹に水が溜まっているし、胸も水音がするもの。…老衰だよね。」

少年は悲しそうにその梟を一撫でした。

「随分と詳しいね、触っただけで死因がわかるなんて。」

「うん、たくさん動物の世話をしているから、同じような死に方をした動物を見続ければわかるようになるよ。それは悲しい。とてもとても悲しいことだよね。」どうやら何度も動物の死に立ち会っているらしい言葉に、早氏くんは少々意外に感じる。

この少年の見た目はせいぜい9歳か10歳だ。

それなのに、老衰か否かの判断が出来るほど見てきたというのだろうか。

今、もっともらしいことを言っていたが触っただけで…、わかるものなのか。

少年の容貌から見ても、普通の環境(<塵捨て場>という特殊環境においていえる水準でも)で育った子供にはとうてい思えない。

ジプシーの子供たちにはない不思議な知性のようなものが、ジプシーの子供よりもさらにみすぼらしい、この少年には見え隠れしていた。

少年はさらに苦しそうに喉を振るわせた。

「スカイが悲しむ。ずっと仲良かったのに…。」

この世の終わりのような仕草で梟の屍骸をその小さな胸いっぱい抱きしめた。

「スカイ?」

「こいつを探していたんだ。…ずっと体が弱っていて眠りがちだったのに、昨夜からいなくなっちゃったから…。」

項垂れる少年は心底悲しいのだと早氏くんを見た。(見たというより、その顔を早氏くんの方に向けただけなのだが。)

二つの窪みから涙が零れ落ちるのではないかと見紛うほど、両の窪みは歪んで、それはそれは哀しそうなに見えたが、やはり少し気味が悪い。

これはヒトの顔ではない。

先ほどの老婆の顔とはまた全く違う、非人間的な相貌。

「スカイは、僕の友人で梟で、でも少し変わっている。」

スカイが知ったらどんなに悲しむだろうかと思う。

そこで、夏野少年は押し黙り、梟を抱きしめ首を振りながらヒィヒィと声を上げた。

どうやらこれが少年の泣き方らしい。

涙も出ない乾いた洞しかもっていない彼にとってはこれが精一杯の悲しみの表現なのであろう。

早氏くんは“スカイ”という名前の梟に興味をそそられたが、結局、啜り泣きを続ける少年に何も訊けずに、自分のベッドを少年と梟の屍骸に貸し与え、その夜は硬いソファとクッションででまんじりともしなかった。

少年は眠る直前に自らの名を、『夏野』と名乗った。

下の名前は名乗らなかった。

■■■

「また、来てもいい?」

翌朝、同じ場所に連れて行ってやると夏野くんは自分で帰れると言う。

今ではすっかりコチコチに硬直してしまった梟を大事そうに抱えて、夏野くんは早氏くんに伺った。

夏野くんは昨夜と同じ格好だったが、早氏くんは学生服をきっちりと着込み、リュックサックを肩に掛けていた。

リュックサックには教科書がぎっちりと詰め込まれている。

今日も学校があるため、これから行くのだ。

「いいよ。」

自分でも驚くほど素直に返事が出来たと思う。

学校のどの人間にもこれほど快い声を出したことはないのに。

自分よりも弱い人間には寛容になれるものなのだろうか。

だとしたら、自分はこの少年を侮辱している。

早氏くんの複雑な心境を知らずに、夏野くんは嬉しそうに笑った。

「次に会えたら“スカイ”を紹介するね。僕の家はオーベルという廃棄工場の裏にあるんだ。」

そう言って、笑った。

オーベル…、薬品廃棄工場の名前じゃないか。

おそらく夏野くんの両親か、それとも庇護者(なんとなく夏野くんには二親はいないような感触があった)がそこを住処としているのだろうとわかったが、同時に少々腹もたった。

早氏くんは夏野くんと別れて学校へと歩き出す。

寝不足でふらふらする頭を抱えて早氏くんは背中で見送っているはずの夏野くんに声にならない悪態をついた。

『ここの近くじゃないか…、昨夜その名前を出してくれていたら俺は、<コーポ・くろっす>に彼を連れて行かなくても済んだのに。』

「確信犯なのかもしれない。」


最後は声に出して言ってみた。

だが、きっと夏野くんには聞こえなかっただろう。

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