5*生命のスープ
氏くんは夏野くんと親しくなっていった。

学校帰りに夏野くんのいる廃工場に立ち寄り、世間話一つでもして帰るのが早氏くんの日課になった。

スカイという白く巨大な梟はいつも夏野くんの傍にいて羽を震わせたり、彼の膝の上で彼から餌を食べたりしていた。

早氏くんはその不思議な光景を見るのが気に入っている。

どう見ても野生の、それも巨大な白い梟は、この自然のカケラもない廃工場には似つかわしくなく、また両眼を空洞にしている脆弱な少年とはアンバランスなものに映る。

その存在のあやうさは、ひどく優しい光景に見えて早氏くんの精神をどこか安定させた。

“ちっぽけな存在の確かさ”

“存在を許されている矮小で醜い星”と。

この醜悪な<塵捨て場>の存在と同じようで、赦されているようで。

早氏くんは安心する。

(そんな意味は無意味だとしても…。)



ある日、夏野くんが早氏くんのアパートにやって来た。

ものすごい勢いで<コーポ・くろっす>の螺旋階段を這いあがり、夏野くんは早氏くんの部屋に辿りついた。

部屋に入ると夏野くんは丸テーブルに衝突して額をしこたま打ちその痛みに床を滑稽に転げまわった。

「あぁ、うぅ…。」

「走るからだよ…、その位置にテーブルがあるのは知っていたろうに。」(眼も見えないのに…という言葉を早氏くんは飲み込んだ。)

ごろごろと転げまわる小さな襤褸人形は屈辱にその両洞(それは両目の位置にある)を歪ませていた。

「…どうしたんだよ。そんなに激昂して?」

床に突っ伏したまま唐突に静かになった夏野くんは、しばらく早氏くんの問いに何も答えようとはしなかったので、早氏くんは、ぴくぴくその身体を痙攣させ丸テーブルの一本足にしがみついてフーフーと息を吐いている夏野くんが落ち着くのをただ待った。

「………。」

しばらくして落ち着いた夏野くんの話はこうだった。

昨夜のこと。

比和さんが、夏野くんの大切に飼っていたウサギを一匹絞めて、鍋にしてしまった。

夏野くんはものすごく怒った。

怒って、昨夜の夕食に出された鍋を食べなかったという。

怒りがどうにも治まらず工場を飛び出てきたと言うのだ。

「グゥ。」

夏野くんのお腹が悲鳴を上げた。

ひどく情けない声色で夏野くんは俯いた。

「僕、鍋を食べればよかった。」

「お腹がすいてるんだ。」

テーブルの下、床に転がったままお腹を両手で抱えて、背中を丸めていっそ無邪気に苦笑った。

「………。」

「君、思っているんだろう?僕は子供っぽいってさ。比和は僕に滋養のあるものを食べさすようにやってくれたことなのにってね。」

「死んでしまえば、肉は肉(ミート)だからな…食べた方が自然だろう。」

早氏くんは、いとも飄々と答えた。

「君は、僕の友人を1パックお幾らのお肉と同じように言うんだね…。」

「ウサギはまだ、何十匹といるじゃないか?ケージで折り重なって寝ているのを見たぞ。」

「そうじゃないよ、あのウサギは一匹だけさ。他のウサギもただ一匹しかいないのにね。君と、僕と、比和も、一匹しかいないように…。

「僕たちは、『1人』だ。」

「…これは、失礼。」

夏野くんは、肩を震わせて笑ったが、早氏くんはなんとなく笑えなかった。

自分はヒトの数え方を訂正しただけなのに、なんてサビシイ言葉だと思った。

「名前さえ、付けていないくせに。」

その通りだった。

夏野くんは、ウサギ一匹にさえも名前をつけていず、呼びかけてやるときは、まとめて「お前たち」とか「お前ら」とか呼んでいた。

「名前が一つにつき一匹かい?…いや、一人かな?」

急に、夏野くんが大人びた調子で早氏くんを振り返った。

容貌も背格好も、小学生のように幼さを匂わせる夏野くんだが、時折老人のように見えることがあった。そんな夏野くんはよくしわがれたような声で、早氏くんをドキリとさせるのだ。

見た目よりもずっと年齢を重ねているらしいことは早氏くんにも察することは出来たが、本当の年齢は全く予想も出来なかった。

「名前なんか、ついていなくても、そこにいるものは、確かなんだ。」

夏野くんは、一言一言確かめるように低く呟く。

「ねぇ、君はどうだろう?僕は僕がこうして息をすることに何の意味も感じていない。でも僕以外の生物の息吹には、僕はひどく寛大なんだ。だから比和を怒ったんだよ。」

「…生命をスープに!」

大袈裟な身振りで夏野くんは叫ぶ!

「………僕にそんな価値などないんだ。」

そして最後は消え入りそうに呟いた。泣いてはいなかった。

それは早氏くんに言っているのではなく、何かに誓うかのように繰り返したのだった。

「そんなこと考えたこともないな。」

キィッと早氏くんの座る椅子が鳴った。

「腹が減れば食べる。というのはそれだけの行為だ。価値があるとかないとか、そういう問題とは無関係なんじゃないのか?生きていれば腹は減るさ。価値がないから食べないって、そんなんだったら死ねばいい。でもこの際はっきり言うけど、君が死んで損をする人間はいないよ。それどころか得する人間すらいない。」

有るような無いような早氏くんの理屈は夏野くんを素直にした。

どうしてこの男は雲を手で掴むような話ばかりするのだろう。

彼が何を言っているのか、何を言いたいのかさっぱりわからない。

「…どういう意味?」

「生きていていいってことだよ。」

しかし、理解できない話をするというのに何故か安心してしまうのは事実だ。

早氏くんの声色が少し優しい。

そういえば最初から早氏くんは優しかった。

最初に知り合ったすぐ後で、探していた梟を丁寧に埋葬してくれたのは彼だった。

そして今、自分の為に何か食べるものを用意してくれているのもこの彼だ。

「………ウサギの葉っぱを探しに行きたい。」

唐突に夏野君がよろよろと立ち上がった。中央の丸テーブルの輪郭を確かめるようにして出口への方向を定める。夏野くんにはこの狭い部屋で自分がいる位置すら掴めない。

「腹ごしらえしないのかい?缶のスープがあるけれど…。」

夏野くんが歩くのを手伝いながら早氏くんは先ほどこっそりと取り出したナベを元に戻した。

「いいよ、出来るなら今は何も食べたくないんだ。」

自嘲気味にへらへら笑いながら早氏くんの手を取った。

「ついて来てくれるんだろう?」

「………。」

「葉が濡れていたら、水滴を拭いてから上げないと、ウサギは死んでしまうよ。」

「わかった、わかった。」

自分の価値を求め続けてもう何年も経つけれど。

価値の無いことに何度も気づき、祈るように死を望むこの僕が。

ウサギの餌を探しに、空腹を抱えて外に出る。

これを「希望」と呼ばずなんと呼ぼうか?

あぁ、早氏くん。

あぁ、早氏くん早氏くん!

僕が、なぜウサギをスープにした比和にあんなに腹を立てたのか?

なぜ、こんなに悲しいのか?

今やっとわかったよ。

僕は、僕自身が誰かの生命になりたかっただけなんだ。

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